太田市美術館・図書館 ART MUSEUM & LIBRARY, OTA
  • Instagram
  • Twitter
  • facebook
  • youtube
  • mail

川の記憶 -内田あぐり

記憶の中にはいくつもの川が流れている。
幼少期を過ごした東中野の家のそばを流れる妙正寺川や、父の故郷である群馬県太田市只上を流れる渡良瀬川である。
かつての妙正寺川は草が生い茂る生活用水が流れるドブ川で、時折段ボールに入った小さな犬や猫が流されていた。
手入れのされていない川の土手は子供達の格好の遊び場でもあった。
遊びに夢中になると、土やゴミで埋まった底無し沼のような泥のぬかるみに嵌り、川に流されそうになることもしばしばであった。
身体中が川の匂いと泥だらけになりながら家に帰ったことは今でも忘れられない憶い出である。

父と一緒に訪れていた渡良瀬川にかかる鹿島橋は、手摺りもない木造の一本橋であった。
一緒に訪れた姉はいつも手摺りのない橋を渡るのを躊躇し、そのすぐ下を悠々と流れる渡良瀬川は幼い私に自然の恐ろしさや美しさをいつも教えてくれた。
鹿島橋を渡り切り、桑の畑に囲まれた畦道を抜けると、今にも崩れ落ちそうな茅葺の農家が見えてくる。
父の生家だ。
父の生家はお蚕農家で、部屋の中央には炉が切ってあり、壁は煤で真っ黒で天気の良い昼間でも薄暗かった。
中二階の屋根裏にはたくさんのお蚕棚があり、夜になりあたりがしんとし始めると、蚕棚からお蚕の幼虫が桑の葉を食べる音が漆黒の部屋じゅうに響き渡った。
朝まで続くその音に、私は一睡もできず、正直父の生家にいくことはいつも恐怖とともにあった。

今、葉山にあるアトリエの前には下山川という小さな川が流れている。川の流れはいつも穏やかで、私の記憶のなかの川とはまた違った印象を与えてくれる。
一年のうちでほんのひと時だけ川の中の藻が鮮明な緑色になる時期がある。
川面全体が鮮やかな緑色の藻の流れる美しいフォルムに包まれるのだ。その時に、私の心にひっそりと想起される光景は、幼少期に見た草の生い茂る妙正寺川や恐怖とともにあった渡良瀬川の遠い記憶である。
私は毎年訪れるほんのひと時の緑色に染まる川面の光景をここ数年描いている。
紙の上を流れる絵具の軌跡は、いつしか遠い記憶を流れる川と重なっていくだろうか。

 

内田あぐり(1949年東京都生まれ、日本画家)

(2018年度開館1周年記念 佐久市立近代美術館コレクション+ 「現代日本画へようこそ」)

ページの先頭へ移動